2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」          入江幸男
               第二回講義(2007年10月10日) 
<前回の講義の補足>
■哲学史における影響関係の論理的分析方法■
1、最初のアイデア
「哲学者Aは、哲学者Bの思想から影響を受けている」と言えるのは、次の3条件全てが満たされる場合、その場合にかぎる。
(条件1)Aのある思想a1の発表の時点で、Bのある思想b1を知っていた。
(条件2)Aのある思想a1が、Bのある思想b1を論理的に前提する。
   (条件3)Bが歴史上初めてb1を考えた哲学者である。
 
念のための確認だが、上の条件を満たすa1のような思想が一つでもあるとき、「哲学者Aは、哲学者Bの思想から影響を受けている」と言える。
 
ところで、(条件3)は、b1がBだけの主張でなく当時の一般的な主張である、という場合を排除するためのものである。しかし、この定式化であると、AがBからb1を教わったとしても、しかし、Bは別のCからb1を教えられたのだとするとき、AはBの哲学の影響を受けていないことになる。また、Cの哲学の影響も受けていないことになる。なぜなら、Cについては、条件1が成り立たないからである。さて、どうしたものだろうか?
 
2、最初のアイデアの修正
以上のような思いつきを、前回はなしたところ、授業後に次のような有益なコメントをいただいた。
 
@Aさんが、Bさんのb1を普遍化した思想a1を主張するとき、AさんはBさんから影響を受けたといえる。しかし、論理的には、a1からb1が帰結するのであって、b1からa1を推論することはできない。つまり、AがBの思想をより一般化する場合がある。
AAがBの思想を批判して独自の思想を展開する場合がある、しかし、批判するためには、Bの思想が必要であった。
 
その通りだと思います。この指摘をきっかけに、そのほかのパターンも考えてみました。
 
BAさんが立てた問いQa1が、Bさんの立てた問いQb1と同じものであり、歴史上Bさんが始めて問いQb1を立てた。
CAさんが、Bの立てた問いQb1をより一般化するような問いQa1を立てた。
DAさんが、Bの立てた問いQb1を批判して、別の問いQa1を立てた。しかし、ひはんするためには、Qb1が必要であった。
EBさんは、Qb1を立てたが解くことができなかった。Aさんは、そのQb1を解決して、その答えとしてa1を主張した。
 

                      §2 Kantの認識論
 Immanuel Kant(1724-1804)
1、準備
(1)Lebenslauf
1724年 4月22日に、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現在ロシア共和国内カリーニングラード)で生まれる。父は、馬の革具職人、三人の妹は、職人と結婚。一人の弟は、牧師。
1737年、母死亡。
1740年、ケーニヒスベルク大学入学
1746年、父死亡。
1747年、『活力測定考』を出版。学生生活をおえ、これより1754年まで家庭教師時代。
1755年、ケーニヒスベルク大学私講師。
1764年、『美と崇高の感情に関する観察』
1766年、『視霊者の夢』
1768年、『空間の方位区別の第一根拠について』
1770年、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に任命。
就任論文『可感界と可想界の形式と原理』
1781年、『純粋理性批判』初版
1783年、『プロレゴメナ』
1784年、『世界市民的見地での一般歴史考』
1785年、『人倫の形而上学の基礎』
1786年、『自然科学の形而上学的原理』
1787年、『純粋理性批判』第二版
1788年、『実践理性批判』(1787末に公刊)
1790年、『判断力批判』
1793年、『単なる理性の限界内における宗教』
1795年、『永久平和論』
1797年、『法論の形而上学原理』
1797年、『徳論の形而上学的原理』
1799年、「フィヒテに関する声明」
1804年 2月12日、老衰により死亡
 
 
(2)時期区分について
<批判期前> 
第一期(1750年代)「合理的形而上学」の立場
  「合理的形而上学の可能性を無条件に信じている」(高橋、224
第二期(1760年代)「経験的形而上学」の立場
  「自然因果律は、矛盾律によっては、導出されない」ということから「形式論理学批判」「合理論的形而上学批判」へと進む。しかし、形而上学を捨てるのではない。
第三期(1770年代)「批判的形而上学」の立場
  『就職論文』において、感性と悟性を峻別し、時空を感性の主観的先天的形式と考えるようになる。しかし、純粋悟性に叡知界の可認識性をみとめた。この「悟性の越権」を批判することによって、批判期に移行する。(高橋昭二『カントの弁証論』、227
<批判期>(1781年以後)
 
(3)おもな参考文献
*第一批判についてのおもな日本語文献
岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』勁草書房
高橋昭二『カントの弁証論』創文社
久保元彦『カント研究』創文社
牧野英二『カント純粋理性批判の研究』法政大学出版局
石川文康『カント入門』ちくま新書
天野貞裕『『純粋理性批判』について』講談社学術文庫
 
2、カントの二分法的思考法
(1)アプリオリな認識と経験的認識の区別
「アプリオリな認識」
  =「経験から独立した、また感官のすべての印象からすら独立した認識」B2
    =「端的にすべての経験から独立に生じる認識」B3
 アプリオリな認識の標徴:必然性 と 厳密な普遍性
         (経験的普遍性 vs 厳密な普遍性: 
           経験的普遍性の例として、「すべての物体は重い」)
「経験的認識」
  =「その源泉をアポステリオリに、つまり経験の中にもつ認識」B2
  =「アポステリオリに、つまり経験によって可能である認識」B3
 
(2)分析判断(analytisches Urteil)と綜合判断( und synthetisches Urteil)の区別
 主語と述語の関係は二通りの仕方で可能である。
・述語Bが、主語Aに(隠された仕方で)含まれているものとして、属している。
・Bが、―BはたしかにAと結合しているのであるが― 概念Aのまったく外にある。
前者の場合に、その判断を「分析的」と呼び、もう一つの場合を、「綜合的」と呼ぶ。
前者を「解明判断」、後者を「拡張判断」と呼ぶこともある。
 
 たとえば、「すべての物体は広がっている」と私が言うとき、これは分析判断である。なぜなら、私は、物体と結合しているものとして延長を見つけるために、私が物体に結びつけている概念を越えでる必要がないからである。むしろ、あの物体の概念をただ分解して、つまり、私が常にその中に考えている多様な物をただ意識すればよいのである。そしてこの述語をそのなかに見つけるのである。
 これにたいして、私が「すべての物体は重い」と言うとき、述語は、私が物体一般の単なる概念のなかで考えるものとはまったく異なるものである。このような述語の付加は、綜合判断を提供する。
 
a piori
純粋
a posteriori
経験的
分析的   ○    ×
総合的   ○    ○
 
■理性のすべての理論的学問の中に、アプリオリな綜合判断が原理として含まれている
・すべての数学的判断は、アプリオリな綜合判断である。(B14
 算術について、「5+7=12」は、アプリオリな綜合判断である。なぜなら、これは必然性をもっているのでアプリオリであり、また、主語概念「5+7」には、述語概念「12」は含まれていないので、綜合判断である。
 
{疑問:5=5もた正しい数式(数学的判断)であるが、しかしこれは分析的ではないのか? これを認めると、全ての数学的判断は、アプリオリな分析判断かアプリオリな綜合判断のいずれかである、とすべきだろう。それとも、5=5は、数学的判断でなく、論理学の判断であるというのだろうか。}
 
  幾何学について、カントは、幾何学の証明が矛盾律のみによることをみとめるが、しかし、公理が綜合判断であるために、定理も綜合判断となると、主張する。
 
物理学は、その原理だけが、アプリオリな綜合判断である。
 
■注:算術の公理について
(1)数学の論理主義をとれば、公理は分析的であることになる。
     ラッセル、フレーゲ、カルナップの立場。
 ラッセルは、「幾何学を含むすべての純粋数学が形式論理学以外の何ものでもないということの証明は、カント哲学にとっては致命的な打撃である。」”Mysticism and Logic, and other Essays" p.74.(宮地p.60)
 フレーゲは、幾何学を綜合的であると考えたのだろうか?
 
(2)論理主義をとらないが、数学もトートロジーであることを認めるなら、公理は分析的であることになる。
     ウィトゲンシュタインの立場。
 
(3)算術の公理が綜合的であるとすれば、すべての定理は綜合的であることになる。
      直観主義者、Brouwer,Heytingにとっては、算術の公理と定理は、綜合的なものである。
 
(形式主義者、Hilbertにとっては、公理は記号の使用方法についての規約であるので、カント的な意味では、分析的でも綜合的でもない。しかし、クワインのいう意味では、分析的である。)
(クワイン、パットナムは、おそらく、論理学も数学も経験的で、綜合的であると考えるのだろう。)
 
■近代哲学者との比較
・ライプニッツは、論理学や数学は、矛盾律を原理とする永遠真理であると考えるので、アプリオリな分析命題だと考える。ライプニッツにとっては、全ての命題は、アプリオリである。しかし、永遠真理と事実真理を区別するのであるから、事実真理は、おそらく綜合判断なのだろう。それとも、神にとっては、全ての真理が永遠真理なのだろうか。
・ロックはどうか?ロックは、生得的概念や原理を認めないので、すべての判断が経験判断であることになる。経験判断は、すべて綜合的である、と考えるのが普通である。しかし他方で、ロックは、論理学と数学を確実な知であると考えている。経験判断は、必然性や厳密な普遍性を持たない、と普通は考える。(ロックを読み直すべし。)
・ドイツ観念論では、全ての判断は、思弁命題=無限判断に基づいているので、
全ての判断は、アプリオリでかつ綜合的であることになる。(これの説明は、来週行う。)
 
3、「アプリオリな綜合判断は、如何にして可能か?」
この問いに答えることが、カントの『純粋理性批判』の第一の課題であった。しかし、この問いは、「アプリオリな綜合判断が成立している」ことを前提している。カントは、算術、ユークリッド幾何学、ニュートン力学が、必然性をもった真理であると考えていた。それゆえに、それら、ないしそれらの原理が、アプリオリな綜合判断として成立していることは、彼にとっては大前提であった。
 
 
(1)直観の形式
「感性」Sinnlichkeit =受容性の能力die F higkeit (der Rezeptivit t),
         Vorstellungen durch die Art, wie wir von Gegenst nden          affiziert werden, zu bekommen (A19,B33,63-13)
「感覚」Empfindug =die Wirkung eines Gegenstandes
                    auf die Vorstellungsf higkeit
「経験的直観」empirische Anschauug =Anschauug, welche auf den Gegenstand                                              durch Empfindung bezieht.
「現象」Erscheinug = der unbestimmte Gegenstand
                      einer empirischen Anschauug
 
「感性」によって、対象が与えられ、直観が生じる
「悟性」によって、対象が考えられ、概念が生じる
「超越論的感性論」=感性のアプリオリなすべての原理の学問
「超越論的論理学」=純粋思惟の原理を含む学問
 
「超越論的感性論」において、まず、我々は、悟性が概念によって考えるものを分離することによって、感性を分離して、経験的直観だけを残そう。
第二に、われわれは、経験的直観から、感覚に属するものを全て分離して、純粋直観と現象の単なる形式だけを残そう。(A22,B36)
 
「純粋直観」=「感性の純粋な形式」
            =「感性的直観の純粋な形式」
「感性的直観の2つの純粋形式」=空間と時間(A22,B36)
 
(2)思考の形式
 人間悟性の認識は、概念による認識であり、直観的ではなく、論証的である。全ての直観は、感性的なものとして、受容にもとづき、概念は機能にもとづく。B93=A68
 私は、機能Funktionのもとに、様々な表象を一つの共通の表象の下に秩序づけるという行為Handlungの統一を理解している。
 しかし、我々は、悟性の全ての働きHandlungを判断に還元することが出来る。したがって、悟性は一般に、判断する能力として表象され得る。
 悟性の機能が、全体として発見されるのは、判断における統一の諸機能が、完全に提示されうるときである。
 
 
             <判断表>

 

 

 

 

1、判断の量   全称            3、判断の関係  定言

                  特称                              仮言

                  単称                              選言

2、判断の質   肯定            4、判断の様相  慨然

                  否定                              実然

                  無限                              必当然

 

 

 

 

 

 

 
 
 
■対象の認識のためにアプリオリに与えられなければならないもの
  (1)純粋直観の多様
   (2)構想力による、この多様の綜合
  (3)この純粋綜合に統一を与える概念
 
■カテゴリーとは何か。悟性の機能、統一
  「概念がこの純粋綜合に統一を与える」A79=B104
  「統一は、一般的に表現すれば、純粋悟性概念である」A79-B105
    <カテゴリー=統一を与える機能>とされたり、
    <カテゴリー=機能によって与えられる統一>とされたりする。
 
{悟性の機能は、純粋綜合に統一を与えるが、その際に、統一の与え方に複数あり、それは、機能が複数あるということでもあり、また統一の種類が複数あるということでもある。それら、複数の機能および複数の統一を純粋悟性概念という。}
 
          <カテゴリー表>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       1、量

        単一性

        数多性

        全体性

 2、質                     3、関係

  実在性                    実体と内属(実体と偶有性)

   否定性                     原因性と依存(原因と結果)

   制限                       相互性(能動者と受動者の相互作用

               4、様相

                 可能 ― 不可能

                 現存在 ― 非存在

                 必然性 ― 偶然性

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
■カテゴリーの体系とアプリオリな表象の全体像の問題
 
Kategorie(Praedikamente)            Praedikabilien  の例 
 
因果性のカテゴリー          Kraft,Hanglung,Leiden
相互性のカテゴリー          Gegenwart,Widerstand
様相のカテゴリー           Entstehen,Vergehen,Veraenderung
 
「プレディカビーリエン」は、「導出された、下位の概念」である
では、どのようにして導出するのだろうか。
  (1)カテゴリーが純粋感性の様相と結合する
     たとえば、「物の運動とは、与えられた空間に対するその物の外的関係の変化で
ある」『自然の形而上学の基礎』A482
    「静止とは同一の位置に現存を持続していること。持続的とは、ある時間の間現存すること、すなわち存続することをいう。」A484
  (2)カテゴリーが相互に結合する
  (3)これらが相互に結合する
例:「物質」「空間」「運動」「静止」「速度」「方向」
定義1「物質とは、外的感官の対象のすべてである」『自然の形而上学』A481
定義2「物の運動とは、与えられた空間に対するその物の外的関係の変化である」                                 A482
定義3「静止とは同一の位置に現存を持続していること。持続的とは、ある時間の間現存すること、すなわち存続することをいう。」A484
 
(3)純粋悟性の原則の体系
  
数学的原則
  1、直観の公理
  2、知覚の予料
力学的原則
  3、経験の類推
  4、経験的思惟一般の要請
 
■直観の公理
  原理「全ての直観は、外延量をもつ」
  (A版:純粋悟性の原則「すべての現象は、その直観に関して外延量である」)
■知覚の予料
  原理「全ての現象において、感覚の対象である実在的なものは、内包量つまり度をもつ」
  (A版「すべての知覚を知覚として先取する原則は、以下の通りである。       『すべての現象において、感覚と感覚の中で対象に対応している実在的なものは、内包量すなわち度をもつ』」)
 
■経験の類推
 これの原理「経験は、知覚の必然的な結合の表象によってのみ、可能である」
 
 第一類推:実体の持続性の原則
       「現象のあらゆる交替において、実体は持続し、
        その量は、自然において、増加も減少もしない。」
 
 第二類推:因果性の法則に従う時間継起の原則
         「あらゆる変化は、原因と結果の結合の法則に従って、起きる」
 
 第三類推:相互作用の法則に従った同時存在の原則 あるいは共同性の原則
    「全ての実体は、それが空間に老いて同時に知覚され得るかぎりで、首尾一貫した相互作用のうちにある」
 
■経験的思惟一般の要請
第一要請:「(直観と概念に関する)経験の形式的諸条件と一致するものは、可能であ   る」
第二要請:「(感覚の)経験の実質的諸条件と連関しているものは、現実的である」
第三要請:「現実的なものとの連関が、経験の普遍的諸条件に従って規定されているも   のは、必然的である(必然的に存在する)」